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ごとくをみがく

パート2

どくしょかんそうぶん。

 
 
 
  

 押見修造惡の華」を読んだ。

  できるだけネタバレ無しで感想を書いてみたい。しない方が良いと判断した。未見の人の楽しみを奪うのは本意ではないし、わたしが圧倒されたのは話の筋だけではなくて、絵そのものだったり、何より込められている捧げられた/捧げたもの、そのものだと思うので。
 
  きつい。こころのやらかいところ、というより臓腑を抉られたようなきつさ。これ、ほんとうに少年誌に載ってたの。。。
  思春期に読まなくてよかった。あのころ、私は家を出るため、毎晩のように地図を広げていたんだから。理由も行くあてもなかった。
   もうわたし、あなた達を殺すか、殺されるしかなくなったから家を出たい、そういうと、母は何度も何かを言いかけて苦しげにため息をつき、父は私たちが小さかったころのビデオを観せ、祖母は私の手を握って泣いた。そのどれもが圧倒的な力強さで私を抱きつぶし、でも、それでも残ってしまった何かのために逃げるように家を出たのが、私の思春期前半の顛末だった。
  作中に頻繁に出てくる『変態』、という言葉は「水の変態」というような、本質的に同じものが形を変えること、標準からはみ出すことを指す。それから派生して変態性欲のことも。作中に出てくる『変態』はそれらを各々指し、またはすべての意味を内包していた。前半の中学生編で3人でてくる人たちはそれぞれがそれぞれの臓腑をさらけ出すような衝突を経ても絶望的に噛み合わず当然のように破滅に向かって加速してゆく。
  壊したかったもの以外を全て壊した結末の後、後半の高校生編ではバラバラになったあとの欠片を集めて、いびつな形に積み上げてゆく主人公が描かれる。
  何もかもを壊す。何もないところから「ほんとうのじぶん」をひとつずつひとつずつ積み上げる。ひび割れている欠片でも、手元にあるものを積み上げる。それは、壊したものに贖う行為なのかもしれない。だって、思春期だからって、どんな理由だって、してはいけないことはしてはいけない。
  
  家を出てから、折にふれて何度もなんども反復した家を出る前のシュミレーション。
  例えばこうだったら、ああだったら、どのルートを辿ってみても、私は家族を殺さずに済んだし、私も家族に殺されずに済んだ。でも、あの頃はほんとうだったんだよ、と思う。それから、ばかだなぁ、とも。
  『あの頃、あんたと同じ年頃の子どもを見て、笑っているのを見て、どうして綾だけがこんなに辛いのだろうと思っていた』と母が言ったのは私が家を出て10年経ったころだった。私が家を出てから引っ越しした家に私の部屋は無く、実家の猫は未だに私を威嚇する。
  「この漫画を、今、思春期に苛まれているすべての少年少女、かつて思春期に苛まれたすべてのかつての少年少女に捧げます。」という作者からのメッセージに、救われた人は多いと思う。
  私は救われない。だって、壊したものには贖わなくてはいけない。けれど、あの頃、なんとか逃げ出した「わたし」に、この涙を捧げよう。(白眼をむきながら。)
 
  蛇足ながら、最終話はとても良かった。羨ましいくらいだ。